流行というやつは、どうにも腰が落ち着かない。
家具屋の現場なんて、ひとつ、テーブルつくるのに何年も寝かせて、材料の機嫌を取るところから始まるというのに、
ちょっとネット世界を覗いてみれば、どこで僕の趣味を嗅ぎつけたのか「これどうでっか?」とばかりに、家具のフリした家具っぽい何かが、遊園地のコーヒーカップみたいに画面の中でぐるぐる回っている。
そんな調子で、家具業界にも流行りだの廃りだの、まあ他と同じく落ち着きのない風が吹いている。
ところが、どういうわけだかそのドタバタした風の下で、妙に低空飛行のまま、それでいて墜ちもしないジャンルがある。
いわゆる骨董家具。気取ればアンティーク、気取らなければレトロ家具。
名前だけやたら立派で、実態はただの“昔からそこらにいた家具”である。
こっちは毎日、筋肉痛だの腰痛だのに悩まされながら、傷ひとつない仕上がりを目指しているというのに、
あっちの世界では、時を経たその傷も込みで「味」とか言われて評価されている。
ことによると、キクイムシが這いまわった穴が前面に出ていたって、それはそれで“特等席”を与えられたりする。
ここまでくると、もはや空恐ろしい。
しかも、人間という生き物は厄介なことに、
過ぎ去ったものほど美化しがちだ。
昔のちゃぶ台を見れば「味がある」と目を細め、
ガタついた椅子を前にすれば「物語を感じる」としみじみ言う。
その“懐かしさ”という感情に名前をつけたのが、
レトロだの、ノスタルジックだの、サウダージだの——
種類がやたら多い。増えすぎて、もう懐かしさの棚が足りない。
家具(モノ)をつくるときは、デキの悪さを言葉で誤魔化せないが、
売ったり買ったりする段になると、不思議なことに、
言葉だけでどれほどでも情緒を盛ることができる。
だからこそ、どれがどんな“懐かしさ”なのか、
いったん棚卸ししておくのも悪くない。
というわけで今回は、
この“懐かしさ周りの言葉”を、家具屋目線でしれっと引っ張り出して並べてみようと思う。
木と同じで、言葉も乾かしてみると輪郭がハッキリするのだ。。
レトロの意味と使い方
「レトロ」というと、なんかこう、日本語特有の——よく言えばおおらか、悪く言えばどうとでも受け取れる官僚答弁みたいな、どっちつかずの響きがある。
ところが元をたどると英語の “retrospective(レトロスペクティブ)”。
平たく言えば「追想にふける」とか「過去を振り返る」といった、意外にも真面目な単語らしい。
つまり本来は単に“過去に意識を向ける”意味合いだったはずなのだが、そこに日本人お得意の、良いのか悪いのかわからない「外来語変換装置」が働くと意味が一気に拡張される。
たとえば家具デザインの世界なんて、実際に古くなくても、どことなく懐かしい顔つきをしていれば、それだけで立派に“レトロデザイン”として扱ってもらえる。
もはや由緒より“雰囲気もの”である。
ちなみにこの国では、どういうわけか “レトロブーム” というやつが定期的に起こるらしい。
ざっと振り返ると、1986年あたりには〈大正末期〜戦後直前〉が持ち上げられ、
2000年前後には〈1955〜75年〉が再評価され、
そして2015年以降は〈戦後ど真ん中の昭和〉が若者に刺さっているという。
こうして並べてみると、なんだか “潮の満ち引き” みたいなもので、
世代が替わろうがスマホが薄くなろうが、
一定数の人がいつも「懐かしさ」を求めてやって来る。

つまりレトロとは、歴史でもジャンルでもなく、
そこにふわっと漂っている “空気そのもの” のことなんだろう。
実体がない分、強い。
ノスタルジックの意味と使い方
ノスタルジックは nostalgia の形容詞。
レトロより一歩踏みこんで、
懐かしさ+じんわり切なさ、という感情に訴えてくる系のやつ。
レトロが「へぇ、懐かしいね」くらいだとすると、
ノスタルジックは「……なんか泣きそう」レベル。
廃墟とか、夕暮れの川べりとか、
別に自分が体験した景色じゃなくても、
なぜか胸をつかまれて立ち止まってしまう瞬間があるだろう。
いわゆる “ノスタルジックな気分に浸る” ってやつだ。
僕なんかはバブル期をかすめた程度の世代だが、
昭和からゾンビ的に生き残ってしまった行楽地の、
くたびれた白鳥ボートなんかが目に入ると、
突然あの頃の空気が、ぬるっと胸の奥から顔を出す。
体験したような気もするし、してないような気もする、
あの奇妙な“時間のねじれ”みたいな感覚だ。

あれはもう、“ノスタルジック”のサンプル展示みたいなもので、
昭和世代なら、「ああ、それね」とだいたい遠い目をして頷くはずだ。
「サウダージ」の意味と使い方
Saudade(サウダージ)はポルトガル語である。
日本では楽曲タイトルや文学の見出しあたりで、
たまに気取った顔して現れる単語だが、
響きだけでなんとなく“哀愁の濃度が高そうだな”という気配を漂わせてくる。
それもそのはずで、ポルトガルでは運命や宿命を歌い上げる民族歌謡〈ファド〉の根っこにあり、
ブラジルではボサノバの湿った情緒にもどっぷり染み込んでいるらしい。
つまり、感情の海を渡り歩いてきた、筋金入りの“情緒ワード”なのだ。
ある紙面では「世界の翻訳しにくい単語ランキング」に入っていたくらいで、
正直、ここで無理に日本語へ変換しようとするのは野暮の極みなのだが、
それでもせっかくこの“懐かしさ一族”の並びに置いた以上、
なんとか説明を試みないといけない。
背伸びして日本語に寄せるなら、こんな感じだろうか。
「過ぎ去った日々をもう一度手にしたいと強く願う気持ち。
いまは取り戻せない人や物への、静かで深い恋しさ。」
……うむ、書いてみてわかる。
要するに、これはもう日本語で全部つかまえるのは無理筋だ。
でも人間というのは不思議なもので、
手の届かないものほど「あれ、もしかして特別なんじゃ?」と
勝手に神棚に祀り上げたがる。
サウダージもその典型で、
きっと本場の人から見れば、
僕らがこうして言葉の端っこだけつまんで有難がっている様子なんて、
まあ、微妙にずれているように映っているのだろう。
……別に構わんけれど。

「ヴィンテージ」の意味と使い方
「ヴィンテージ」という言葉、今やギターの値札にも家具のタグにも、当然の顔してぶら下がっているけど、元をたどるとめちゃくちゃ地味だ。
はじまりはラテン語で「ぶどうを収穫する」。
つまり、ワイン農家のオジサンが朝から畑で汗流して「今日も収穫だわい」と言ってる、そのあたりが発祥である。
そこからフランス語の vendange、英語の vintage と進化しているうちに、
なぜか気づけば
「60年代のギターがどうのこうの」
とか
「このチェアはヴィンテージ感が〜」
などと、ぶどうの“ぶ”の字もない所でわちゃわちゃ使われるようになってしまった。
本来は“ぶどうを摘んでワインにして瓶に詰めるまで”の工程を表す、
控えめに言って地味すぎる単語だったのに、
いつの間にか“ワインの当たり年”を意味するようになり、
さらに車、古着、家具まで巻き込んで、
ほぼ言い得て妙の“なんか古いけど良いもの”に魔改造された。
日本ではさらに派生が進んでいて、
10〜30年くらい経ってれば、
「これはヴィンテージですね(ドヤ)」
なんて空気がある。
誰が決めたルールなのか知らんが、まあ、言ったもん勝ちである。
僕も昔は
「ヴィンテージ=家具とギターのために存在する言葉」
だと思ってたけど、語源を知った瞬間、
「おまえ元は農家じゃねえか」
と心の中でツッコんでしまった。
“vine=つる植物(=ぶどう)”なんて語源を聞かされたら、
家具界で荒ぶるこの単語がちょっと可哀想に思えてくる。
とはいえ、
レトロやノスタルジックやサウダージほど感情偏重でもない。
もっと実務的で、もっと合理的で、
要するに——
「新しくはないけど、なんかえらく良い名品」
これに刺さるのがヴィンテージだ。
情緒で売るタイプじゃないが、
「こいつは確かによくできてるな」と思わせるだけの説得力がある。
ワインの当たり年が、家具やギターの世界でもそのまま当たり年扱いされているのが、なんとも言えず愉快だ。

「アンティーク」の意味と使い方
アンティーク──なんて言葉は、
なんだか「人生経験が長いだけでやたら威張る老人」みたいな雰囲気をまとっている。
でも語源を辿ると拍子抜けで、ラテン語の Antiquus、ただの「古い」。
以上。
そこにロマンも深みもない。
“古いだけ”。
そいつがいつの間にか香水みたいな顔したフランス語の “Antique” と呼ばれだすんだから、
言葉の成り上がりって恐ろしい。
日本語では「骨董品」と訳すことになっているが、
この“骨董”という言葉のそもそもの意味には
価値も格式も、ましてや美術的な神々しさも一切含まれていない。
ただの古道具だ。
ご近所の床下から出てきたザンネンな壺だって“骨董”は骨董である。
じゃあ、どこからが“偉そうな古さ”なのか。
これはアメリカが1934年にズバッと決めている。
「製造から100年以上たったらアンティーク」
はい出た。
線を引かれた瞬間、
「99年」は古いだけの奴で、
「100年」は歴史の証人。
途端に税関でも扱いが変わる。
時間というのは、どうやら美術館より権力が強いらしい。
そしてこの“百年ルール”を、世界貿易機関(WTO)まで採用しているという事実。
つまり世界規模で、
「人間は古いものに弱い」
という認識が共有されているわけだ。
なんとも情緒的な文明である。
アンティークの世界では、
ひび割れは「風格」、
塗装の剥落は「時代の呼吸」、
ガタつきは「味わい」、
欠損は「歴史の証言」。
人間は都合が悪くなるほど
言葉を詩的にしていく癖があるが、
アンティークはその最たる例だ。
考えてみれば、
“古いものは価値があるはずだ”
という前提が勝手に存在していて、
そこに後付けで物語を与える行為そのものが、
すでにアンティークの構造なのだ。
百年前の家具が何を思って生き延びたかなんて、
本当は誰も知らない。
たまたま捨てられず、たまたま燃やされず、
たまたまクローゼットの奥で眠っていただけかもしれない。
それが現代に顔を出した途端に “格式” を着せられるのだから、
言葉が行う化粧というのは恐ろしい。

だけどまあ、百年も殴られず燃やされず捨てられずに残った家具が、
確かに何かしらの強さや美をもっているのは事実で、
そこだけはちょっと嫉妬する。
“僕が今つくってる家具も、百年後にそう思われるのか?”
などと一瞬だけ考えて、
「いや、その前に僕が死んでる」
と気づき、コーヒーをすする。
アンティークとは、そういうジャンルだ。
「クラシック」の意味と使い方
アンティークが「百年以上なら勝手に格がつく」という
わりと強引なルールで権威を手にしたのに対して、
クラシックはもうちょい面倒くさい。
語源はラテン語の class。
等級とか階級とか、学生のクラスとか、
どうにも“身分”の匂いがぷんぷんする単語である。
古いとか新しいとか一切関係ない。
ひたすら“格付け”の世界。
じゃあクラシックとは何かというと──
要するに 「最高クラス」 の名残り。
そこから転じて「古典」、
あるいは「様式の手本」なんて意味に成長していった。
つまりクラシックは、
ただ年を食っていれば名乗れる言葉ではない。
「みんながこれを基準にしよう」と
一度でも認定された者だけが座れる席。
いわば “格の指定席”だ。
だからクラシックは家具だけに使われる言葉じゃない。
バレエにもスポーツにも音楽にも、
“手本があってこそ存在する世界” に顔を出す。
裏を返せば、
規範がなければクラシックは成立しない。
百年前の箪笥でも、
誰もその様式を手本にしていなければ、
それは単なる古い箪笥だ。
クラシックを名乗るには、
「お前たち、まず私を見て勉強しろ」と
言わんばかりの堂々たる存在感が必要になる。
アンティークが「古さに価値を着せる魔法」だとすれば、
クラシックは「価値を保つための戒律」みたいなものだ。
そして面白いことに、
アンティークは歴史が保証し、
ヴィンテージは時代が保証し、
クラシックは人間が“勝手に”保証する。
どれも違うクセに、どれも似たような顔をしている。
まとめるとクラシックとは、
古いかどうかよりも、“長年王座に居座れるだけの理由” を持った存在
……というわけだ。

家具だろうが音楽だろうがスポーツだろうが、
結局のところ、
“人間がありがたがり続けたもの”
がクラシックになる。
なんとも、言葉としては実に人間くさい。
最後に
レトロだ、ノスタルジックだ、サウダージだと並べてみると、
どれも結局は「人間が過去にそっと手を伸ばすときの言葉」なのだと気づく。
家具にしても風景にしても、
時間が経つと不思議とまろやかに見えてくる。
百年前の傷は“味わい”と呼ばれ、
色褪せた布は“趣”と評価される。
それが良い悪いではなく、
人間にはそういう感性が備わっているのだと思う。
ただ、言葉がたくさんあると迷いもする。
そこで最後に、
懐かしさ周りの言葉をそっと整理しておく。
◆懐古ワードを控えめに“一言で”
- レトロ … 実際に古くなくても、懐かしさを感じさせる雰囲気のあるもの。
- ノスタルジック … 懐かしさに、少しの切なさや郷愁が混ざる心の動き。
- サウダージ … 言葉にしにくい喪失感や恋しさが胸の奥に滲む感情。
- ヴィンテージ … 年月が価値を育てた“質の良い古い名品”。
- アンティーク … 100年以上の歴史を持ち、特別な価値が認められる品。
- クラシック … 長く受け継がれ、規範として存在し続けるもの。
懐かしさをどう呼ぶかは人それぞれだが、
どれも“過去を大切に思う気持ち”の別の表情にすぎない。
木が年輪を重ねて味わいを増していくように、
言葉もまた、時とともに意味をふくらませていく。
それらをゆっくり見比べながら、
気持ちの向かう先を楽しむのも悪くない。

