ちゃぶ台ほど、実物よりも思い出の方が立派な家具も珍しい。
ちゃぶ台、という言葉を聞くだけで、
なぜか部屋の天井が低くなり、ブラウン管テレビが現れる。
ちゃぶ台と食事の関係
家族がみんな揃って、
ひとつの台を囲んで食事をする。
今では、
特別に意識することもない光景だが、
これは日本の歴史の中では、
かなり後になってから現れた習慣だ。
少なくとも江戸時代まで、
庶民の食事は「各自が食べる」ものだった。
銘々膳。
名前の通り、
一人ひとりに膳が与えられ、
同じ空間にいても、
食事はあくまで個別に完結していた。
同じ料理を、
同じ場所で、
同じ時間に食べていたとしても、
そこに「ひとつの卓を囲む」という発想はない。
むしろ、
同じ台につくという行為そのものが、
身分の近さや序列をはっきりと示してしまうため、
不用意に混ざることは許されなかった。
奈良や平安の時代、
支配層の宴では
台盤(だいばん)や机(つくえ)が使われることもあったが、
それはあくまで同じ身分同士の話だ。
日本社会は、
長いあいだ縦に割れていた。
だから、
みんなで囲むちゃぶ台のような家具が、
自然に生まれる余地は、
ほとんどなかったと言っていい。
ちゃぶ台の普及
明治に入ったからといって、
日本社会が急に横並びになったわけではない。
ただ、
都市部では事情が違っていた。
人が集まり、
仕事が集まり、
住む場所はどんどん狭くなる。
家は狭い。
部屋も少ない。
それでも家族は増える。
そんな環境で、
銘々膳を人数分並べる余裕はない。
そこで現実的だったのが、
ひとつの台を、
みんなで使い回すという方法だった。
ちゃぶ台は、
思想の勝利というより、
生活の工夫だった。
結果として、
同じ台を囲むことになる。
それは、
あとから意味づけされた「家族団らん」よりも、
ずっと実務的で、
ずっと切実な理由だったのだと思う。
やがて、明治十年代から二十年代にかけて、
少しずつ。
そして三十年代の後半、
一気に加速する。
なぜ「ちゃぶ台」なのか
ところで、
なぜ「ちゃぶ台」なのか。
「台」は分かる。
問題は、その前の「ちゃぶ」である。
中国料理はかつて
「卓袱(しっぽく)料理」と呼ばれていた。
その発音が訛って、
「チャブ」になった、という説がある。
また、
南中国では食事そのものを
「チャフン」「ジャブン」と呼んでいた、
という話もある。
さらに、
チョップスイを出す店が
「チャブ屋」と呼ばれていたことに由来する、
という説まである。
どれも決定打に欠ける。
現在では「卓袱台」と書くが、
これも当て字に過ぎない。
結局、
食事、異国、新しさ、日常。
そのあたりが混ざり合って、
「ちゃぶ台」という名前が定着したのだろう。
ちゃぶ台は時代の象徴だった
ここまで読んで、
頭の中に浮かんだちゃぶ台は、
たぶん、こんな形をしている。

ちゃぶ台は、
ただの家具ではなかった。
全員が同じ高さで、
同じ距離感で、
同じ台を囲む。
それは革命ではない。
生活の中で起きた、
小さな横並びだった。
質素で、
控えめで、
用が済めば片付けられる。
実用の末に生まれ、
意味を背負わされ、
気がつけば時代の象徴になっていた。
だから、
ちゃぶ台は記憶の中で、
少し誇張される。
実物よりも、
思い出の方が立派なのは、
そのせいだ。
ちゃぶ台とは、
そういう家具だったのだと思う。
── 参考資料
・小泉和子『ちゃぶ台の昭和』(河出書房新社)

