家具産地と言えばどこ? 日本の六大家具産地まとめ

国内には家具産地と呼ばれる地域がいくつかありますが、あらためて調べてみると、現在では以下の6カ所(その周辺含む)がまさに六大家具産地と言えそうです。

国内の木製家具業界は低迷を続けていますから、いずれにしてもピーク時にあったメーカーの数は年々激減しています。

そんな中で、今も尚生き残っているのですから、本当の意味で世界にも誇れる技術や、アイデア、個性などを持つ品質確かなメーカーと出会えるのではないでしょうか。

では、それぞれ見てみましょう。

北海道旭川市

旭川家具の成り立ち

冬場はずっと雪が積もることもあって、昔は木材の自然乾燥ができず、木工芸には向いていない地域とされていたようですが、1899年に札幌市から陸軍の移駐がはじまると、旭川の本格的なまちづくりのために国内各地から職人達が集まってきました。

1913年、北海道内の農業が凶作に襲われたことを機に、当時の旭川区は、木工伝習所を開設して木工業の発展を促します。
この時もまだ、国内で人工乾燥装置は民間企業には普及されていなかったはずですが、もともと森林資源に恵まれていたり、1914年からの第一次世界大戦の戦時需要もあり、旭川の木工業が発展することになったようです。

因みに調べてみると人工乾燥装置は1909年頃に初めて日本に輸入され、民間企業に普及しだしたのは1921年頃からであることが分かります。全国の中でも乾燥の面では不便だった地域にもかかわらず木工芸が地場産業として始まったのには、それ以上に冬場の農業の代わりとなる産業が切実に必要だったのかも知れません。

旭川の代表的木製家具メーカー

静岡県中部

静岡家具の成り立ち

徳川家光時代、静岡浅間神社の大造営のために全国から集められた職人達によって建築物とともに家具も作り始められました。

当初は気候が漆工に適していたこともあり、主に多くの職人がそこに定住し、漆器づくりに励むこととなります。

そうして漆器づくりで培われた技術はやがて明治時代に入ると当時、需要の多かったであろう鏡台づくりに活用されるようになりました。
その後は針箱の上に猫足と鏡がついた形の西洋鏡台、茶箪笥へと展開していくこととなります。
静岡の家具づくりでは大正時代から製造問屋を中心にした生産分業化が進み、木地屋、漆師屋、蒔絵師などに分かれていき、さらに昭和の初期には丸鋸盤や帯ノコ、プレナーなどの大型機械の登場で工場生産の効率化も図られます。

その後、1947年4(昭和22年)の進駐軍用家具類の発注を受けると静岡の家具産業は益々発展していくこととなりました。

静岡の代表的木製家具メーカー

岐阜県高山市

飛騨家具の成り立ち

飛騨には古来より優れた建築技術とその職人たちが多く顕在し、その人達を「飛騨の匠」と総称することがありました。
「飛騨の匠」の記述を確認できる資料には西暦718年(養老2年)、約1300年も前のものもあり、それだけでもその歴史を感じられます。
当時、優れた匠達は都の町づくりのために派遣され、それは約500年以上にわたります。

一方、飛騨で家具づくりが行われたのは、1920年(大正9年)のこと。
大阪で西洋の曲げ木技術を学んだ2人の旅人があり、飛騨の人々のこころを動かします。

もともと、ブナを代表とする豊富な森林資源があったことと、「匠」の文化、当時の時代背景がいろいろと重なったのでしょう。飛騨の有志達は2人の旅人の影響を受け、出資し合い、とうとう家具メーカーを創業するに至りました。
実はこのメーカーが今でも飛騨を代表する家具メーカーである飛騨産業(株)ですからすごい歴史です。
政府の奨励もあり、最初はブナ材でトーネット型の椅子をつくるのに試行錯誤したそうですがやがてその技術は定着していきます。

その後、飛騨では柏木工やイバタインテリア、日進木工といった現在まで続く代表的メーカーが誕生しますが、それだけでなく多くのメーカーが集まり、全国の木工家が憧れる地となっています。

飛騨の代表的木製家具メーカー

徳島県徳島市

徳島家具の成り立ち

徳島家具の歴史として、現存する資料(兵庫北関入船納張)の中では1400年代半ば(室町時代)まで遡ります。
もともと林産物に恵まれていたこともあり、その当時すでに木材や木材加工品がつくられていた記述があることから実際にはもっと古くから建築のための木材が扱われる地域であったのが想像できます。

その後大きな出来事として1585年(天正13年)、阿波国(現徳島市)に蜂須賀家政 公が築城の際、福島に水軍基地をおき、その際200人ほどの船大工をそこに住まわせました。
永きにわたり船大工達の技術は受け継がれますが明治に入り、廃藩置県が起ると、船大工達は実質仕事を失うこととなり、日常雑貨などを作り始めました。

以後、箪笥、針箱、桐下駄などから鏡台、仏壇、或いは水車などに使われる木車、脱穀機などの農機具をつくる職人へと分岐、展開していったことで船大工の蓄積されていた技術が木工・家具製造業に引き継がれ、現代の地場産業としての土台となったようです。

大正時代にはシタン・コクタン・タガヤサンでつくる唐木仏壇も造られるようになり、今では唐木仏壇の生産高は全国一の規模となっています。

徳島家具の代表的メーカー

広島県府中市

府中家具の成り立ち

府中家具のはじまりは衣装箪笥からはじまったようです。

そもそも衣装箪笥が日本でつくられるようになったのは江戸時代1661年~1673年(寛文年間 )、大坂に始まったそうですが、その大阪で箪笥づくりを習得した備後国有磨村の内山円三という人が帰郷して箪笥をつくりはじめました。
その当時すでに、建具や長持ちなどの木製品はつくられていたものの箪笥のような高価な家具はまだまだ庶民には行き渡らない時代ですから当時の衣装箪笥は珍しく、目立った存在だったでしょう。
そんな内山円三に影響を受けた指物師がその技術を学び、次第に箪笥は府中に少しづつ広まっていったと考えられます。

ただし今の様に家具が盛んに作られ始めたのは明治に入ってからで、江戸時代にはあくまでも日用道具が木材でつくるのが主だったはずです。

それでも府中にはその後木材を扱う地として発展してしかるべき条件が揃っていました。

当時、備後府中は中国山地で伐採された木材を福山方面へ芦田川に流して運ばれていたり、近くに石州街道があることで物流の利便性が高く、木材の入手が容易であったことです。

それともう一つは気候です。
まだ人工乾燥装置のない時代には、木材を自然乾燥させる気候が大変重要でした。
瀬戸内の温暖な気候と適度の雨量は、まさに自然乾燥に適し、木材として質の高い材料を提供できる地域でもあったのです。

備後の桐

近年ではその数は減っているものの岩手の南部桐、福島の会津桐に次いで岡山から広島東部にかけては備後桐が代表的な桐の産地です。

府中の代表的家具メーカー
  • マルケイ木工(株)
  • 村上木工(株)
  • 土井木工(株)
  • 松岡家具製造(株)
  • その他多数⇒「府中 家具 メーカー

福岡県大川市

大川家具の成り立ち

大川市榎津にある願蓮寺は1536年に榎津久米之介(室町幕府十二代将軍・足利義晴の家臣であった榎津遠江守の弟)が建立したものですが、そこに残る古文書には当時の船大工に家臣の生活のため指物(家具)をつくらせてたことが記録されているそうですが、家具産地として発展した要因とはいえなそうです。

本格的に発展し全国的に家具の産地として認知されたのは1877年(明治10年)頃以降で、木材の確保に恵まれた環境であったことや先述の「榎津指物」がすでに生まれていたことなどが考えられます。1889年(明治22年)に町村合併により大川町が誕生した時、すでに木工関係業者が町全体の1/4程にもあったそうですから驚きです。

家具の町として認知された要因の一つには大川独特の衣装箪笥がつくられるようになったことで、その特徴は非常に大型、材質は杉・桐・欅を使い、素木・透漆・黒塗などで仕上げられているのが特徴です。また、金具には鉄・銅・真鍮などを使い、薄いタガネによる細かな透彫りを施すという手法も大川独特のものでした。

全国的に見ると大阪で衣装箪笥が作られるようになったのが1661年からですから随分遅れをとっているものの、大川家具は現代では、家具の生産高全国一位を誇るまでになっています。

これには大川の木工業全体に大正期の需要の増大に応えるべく、積極的に当時最先端の機械の導入をしていくといった取り組みがあったのが考えられますし、組合では各地で開催される博覧会や品評会などに「大川の指物の真価を 周知させ、販路を拡張する」という目的で、主な業者の代表的な作品の出品を積極的に進め、大川家具の宣伝に努めた結果、販路を拡大できたことが大きく影響しているかも知れません。

大川の代表的家具メーカー

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